【ベンチャーの神様逝く】

9月2日(金)

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死去の稲盛和夫氏 自叙伝から読み解く「ベンチャーの神様」の原点

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稲盛和夫氏(C)日刊ゲンダイ
稲盛和夫氏(C)日刊ゲンダイ

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 京セラの創業者で名誉会長の稲盛和夫氏が8月24日、老衰のため京都市内の自宅で死去した。90歳だった。京セラと同じ京都府に本社を構える企業から悼む声が相次いだ。

日本電産の永守重信会長兼最高経営責任者(78)は、「経営者人生の師だった。絶えず京セラのような会社にしたい、稲盛さんのような経営者になりたいと頑張ってきた」とコメントした。

2003年、日本電産が現在の本社を建てた際に、高さが95メートルだった京セラ本社を意識した。「笑われたが、100メートルのビルを建てた。いつか京セラを追い越すんだという気持ちがあった」と話していたことがある。

■逆境で培った反骨精神

個性的な企業がひしめく京都経済界で異彩を放った稲盛氏は、鹿児島出身の薩摩隼人だった。逆境で培った反骨精神が「ベンチャーの神様」と言われる稲盛氏の原点である。

稲盛和夫のガキの自叙伝」(日経ビジネス人文庫)から、彼の原点を読み解く

稲盛氏は1932年、鹿児島市で生まれた。父親は印刷業を営んでいた。敗戦直前の空襲で工場は全滅。戦後は焼け跡に建てた掘っ立て小屋での貧乏生活だった。高校時代は、近所の人たちが内職でつくった紙袋を自転車に積んで、闇市や駄菓子屋などに行商して回った。母親が近所の人々の窮状を少しでも和らげられればと考えて、内職を発注したのだという。

卒業後は就職するつもりでいたが、担任が両親に「稲盛君を大学に行かせてほしい。奨学金をもらえるから」と説得してくれた。大阪大学医学部薬学科を受験したが不合格。地元の鹿児島大学工学部応用化学科に進んだ。
成績はトップだった。石油会社に就職したかったが、縁故のない地方大学出は、どこからも相手にされなかった。空手を習っていて腕っぷしには自信があったため、ふて腐れて「インテリヤクザになってやろうか」と真剣に考えたという。心配した恩師の紹介で京都の碍子メーカー、松風工業に就職した。

研究室にふとんや鍋を持ち込み、朝から深夜まで研究に没頭。電子用のニューセラミックを開発した。セラミックとは焼き物のこと。日立製作所がご指名で、「セラミック真空管をつくってほしい」と頼んできた。

悪戦苦闘していると、新任の技術部長が「君の力量では無理だ。うちには、京大を卒業した先輩たちが何人もいる。彼らにやってもらう」と言い出した。鹿児島の田舎大学出にはできっこない、と頭から決めてかかったのだ。

この言葉を聞いた稲盛氏は切れた。「どうぞ、そういう優秀な人にやらせてみてください。私は辞めます」と辞表を叩きつけた。稲盛氏は若いころからカリスマ性を持っていた。彼の磁力に惹きつけられた同志たちが集まった。稲盛氏が辞めると知ると同僚たちが「我々も辞めます」と言い出した。

■「稲盛君の上に人を置いたらいかんのや」

能力を買っていた前任の上司だった青山政次氏は「稲盛君の上に人を置いたらいかんのや。稲盛君の技術を世に問う会社をつくろう」と声を張り上げた。8人が血判状に署名した。
会社をつくるには先立つものが要る。カネだ。青山氏には当てがあった。京都大学工学部電気科の同窓で、京都の配電メーカー、宮木電機製作所の西枝一江専務と交川有常務の2人だ。青山氏は稲盛氏とともに出資を頼みに西枝を訪ねた。

「お前アホか。この稲盛君がどれほど優秀かしらんが、26、7歳の若造に何ができる」と一喝された。それでも青山氏はひるまなかった。「稲盛君の情熱は並外れている。必ず大成する」。

「情熱だけで事業は成功するのか」と言い返されると、稲盛氏も負けずに「将来きっとニューセラミックの時代がやってくる」と必死に訴えた。2人は何度も出かけて頭を下げた。そして、とうとう資金援助を受けることができた。

宮木電機の宮本男也社長、西枝専務、交川常務の3人が「あなたが株主になって、あなたの会社をつくりなさい」と言って貸してくれた300万円を資本金に充てた。

1959年4月1日、京都セラミック(現・京セラ)が発足した。社長には資金援助してくれた宮木電機社長の宮木男也になってもらい、専務が青山氏(2代目社長)、稲盛氏は取締役技術部長(3代目社長)に就いた。宮木電機の倉庫を間借りし、社員28人で産声を上げた。稲盛が27歳のときだった。

京都は「ベンチャーの都」である。ベンチャーを支援する文化が根付いている。オムロンの前身の立石電機の創業者、立石一真氏は若手起業家の育成に務めた。

異彩を放つ経営者たちは、ベンチャー精神を尊ぶ京都の風土から生まれたといっても過言ではない。(一部敬称略)

本日の逸品
ぐじ(あまだい)の塩焼き
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