【とりあえず復活】

6月6日(木)


皆さんお久しぶりでございます。

お待たせしました。ようやく復帰できました

新しいパソコンにまだ慣れてないのでぎこちない感じです。


今日の記事


突然ですが、織田信長という武将にどんなイメージを持たれてるでしょうか?

もちろん好き好きがあると思いますが意外と知られてない信長という武将についてご紹介します


天正10年6月2日(1582年6月21日)は、歴史的に有名な「本能寺の変」が起きた日です。本能寺の変については皆さんご承知の通りです。


「仏教と信長」について

「僧侶は丸腰」という常識を作った信長

日本史の英雄の中でも織田信長ほど誤解されやすい人物はいない。

時代小説大御所、藤沢周平氏も「信長ぎらい」と言うエッセイを書いて、信長は政治家ではないと自論を展開されてるほどだ。
こういうことを言うと気が引けるが信長批判は典型的な誤解であり、歴史的にいえば完全に誤りだと言っていい。

それは、信長が非戦闘員のつまり丸腰の庶民や坊さんを大量虐殺をしたから許せない、という前提である。

僧兵がいる延暦寺だけでなく、本願寺の門徒も武器を持った戦闘員である。これが戦国時代の常識だ。
武蔵房弁慶存在を見てもわかるように、実際には平安時代から寺社勢力は強力に武装した戦闘集団だったのである。
だからこそ、「新興宗教」であった本願寺の一向一揆も日蓮の宗徒も武装した。そうしないと、邪教の集団として旧来の仏教勢力に殺されてしまうからである。誇張して言っているのではない。
天文法華の乱(1532年)で京都の大部分が焼け野原になった大事件は、比叡山延暦寺の僧兵が日蓮宗を「邪教」とみなして、洛中にあった日蓮宗寺院をすべて焼き討ちしたからおこったのである。宗教者が武器を持つと普通はが討論で済むところが殺し合いになる。それが戦国時代の宗教界の実情であった。
もちろんこんなことは平和な統一国家を築く為の障害となる。
だから信長は「そういうことはやめろ」と、旧来の仏教勢力にも新興の勢力にも一貫して要求した。しかし彼らはそれには従わなかった。
だからやむ得ず、寺を焼き討ちし宗徒を殺戮した。しかしそれは宗教団体の武装解除という目的を果たすためだから、本願寺がそれに応じた時、布教の自由に関しては完全に認めたのである。
信長は両手を血で洗わざなかったが、後継者の秀吉、家康はそのおかげでかなり楽をした。

天台宗の比叡山延暦寺のライバル真言宗の高野山金剛峰寺は秀吉の武装解除を素直に応じた。信長が延暦寺の焼き討ちをおこなっていなければ、「焼き討ちなどできるものか!」と高野山も高をくくって武装解除に応じなかったであろう。
家康は、さらに楽であった。ムチだけでなくアメも与えてた。
利権構造を失った寺に対して領地を与えてたのである。その結果、戦国時代に超強力な武装集団でなった寺社勢力はすべて国家の統制に服した。これ以降、僧兵というものは日本になくなり、僧侶はすべて丸腰となりそれが常識となった。

そんな常識を作ったのは誰か? 
信長である。 

「丸腰の僧侶を焼き討ちするとはけしからん」などと批判するのはいかに本末転倒ではなかろうか。

(井沢元彦氏「激闘の日本史」)一部引用

 


毎日の逸品のを載せてましたが、写真の取り込み方がまだできません。

追って紹介するようにいたします。