【忠臣蔵トレビア】
12月12日(月)
皆さんこんにちは。
寒い朝でした
今日の記事
意外と知らなかった
あなたの知らない「忠臣蔵トリビア」 歴史作家が解説
歴史に残る赤穂事件は「仮名手本忠臣蔵」というお芝居になり、いろんな脚色が加わった。そのため、多くの人がイメージする忠臣蔵は、史実と異なることが多い。歴史作家の加来耕三氏に聞いた。
①雪は降ってなかった
雪が降りしきる中、47人の浪士たちが吉良邸まで静かに歩を進める――忠臣蔵のクライマックスといえば、こんなシーンが思い浮かぶ。ところが、「討ち入りの日は快晴で、雪は降っていません。雪を降らせたのは、歌舞伎の演出です」。
②山鹿流陣太鼓はない
討ち入りの際、陣頭指揮する大石内蔵助がドーンと叩いたとされる陣太鼓。これが山鹿流陣太鼓などと呼ばれているが、「大石が持っていたのはドラです。太鼓は持っていません。彼らは幕府に討ち入りで使った道具をすべて差し出しているため、記録が残っているのです」。
③装束をまねた新選組
黒地の羽織に袖口が白、襟には播州赤穂浪士と書かれている討ち入り装束も、歌舞伎の演出だ。
「みんな食うや食わずの浪人で、服装をそろえられるようなカネもありませんでした。そんな歌舞伎の赤穂浪士の格好を気に入ったのが近藤勇で、新選組の隊服で真似をしています」
④内匠頭は「キレる若者」だった?
浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった動機は今も分かっていない。
「内匠頭は『この前の遺恨、覚えたるか』と言って切りつけています。ただ、その遺恨がなんだったのかは不明。朝廷からの使者を接待する際の勅使饗応役といっても会計の担当で、作法をめぐり吉良にいじめられる状況は考えにくい。田舎侍ぐらいは言われたかもしれませんが、世間知らずのボンボンが大した理由もないのにカッとなったというのが真相ではないか」
当時、浅野は35歳。キレる若者というには老けているが、こらえ性がなかったのは確かだろう。
⑤討ち損じを批判した乃木大将
浅野は吉良を2度切りつけた。最初は額、2回目は背中に傷を負わせている。ここで吉良を仕留めていれば、その後の討ち入りはなかった。
「乃木大将は、『なぜ突かなかったのか。武士として不覚悟である』と内匠頭を批判しています。一撃で殺していれば、家臣に迷惑をかける事態にも発展しなかったというわけです」
ダメな上司の典型だったか。
本日の逸品
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