【Jリーグを作った男】

1月18日(木)

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また明日から寒波

今日の記事

すごい人だ

森健兒氏 「Jリーグをつくった男 木之本興三君を悼む」

右足を切断した木之本氏を入院先に見舞った森氏(左)/(C)日刊ゲンダイ

右足を切断した木之本氏を入院先に見舞った森氏(左)/

 Jリーグをつくった男が逝った。8日に68歳の誕生日を迎えたばかり。2つの思いが交錯する。
「まだ早い。70にもなっていないじゃないか」
「よく頑張った。もう無理はするな。あの世でゆっくり過ごしてくれ」
 元Jリーグ専務理事の木之本興三君が15日、あの世へと旅立った。彼の人生はサッカーとともにあったが、それと同時に「病魔との壮絶な闘い」でもあった。
 古河電工のサッカー部(現J千葉)でプレーしていた26歳の時、難病に取りつかれて両腎臓を摘出。以来、週3回の人工透析が欠かせなくなった。
 私が三菱重工広報課長時代に日本サッカーリーグ(JSL)事務局をお手伝いしている時、古河サッカー部OBで日本サッカー協会の長沼健元会長から「病人だけど間違いなく仕事はできる」と推薦され、専従職員の事務長として迎え入れた。

 

予期せぬ大病は、彼を有能なサラリーマンとして、良き家庭人として生きていくことを難しくした。木之本君は、せめて日本サッカーのメジャー化にまい進することで「生きている実感」を得たかったのだろう。
■病をおしてプロ化に奔走
それが「日本のサッカーはプロ化しないと生き残れない」という思いにつながり、それからの木之本君は「まるで死に急ぐように」プロ化のために奔走した。1985年だった。木之本君が三菱重工の職場にやって来た。「JSLの総務主事になって下さい」。JSLの総責任者のポスト(現Jリーグ・チェアマン)である。彼と二人三脚でプロ化を推し進め、翌86年には「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」という選手の登録区分をつくった。プロという言葉はないが、純然たる「プロ契約選手」のことである。
プロ化への道筋をつくった後、名古屋に転勤したこともあり、総務主事を川淵三郎・初代チェアマンに託した。それから93年に発足したJリーグ=川淵チェアマンというイメージが定着したが、今あるJリーグの礎をつくり上げ、日本サッカーをW杯常連国に育て上げたのは、ひとえに木之本興三という男の存在なくしてあり得ない。

 

50歳を過ぎて別の難病にかかった彼は右足を膝上で切断し、次いで左足も膝上で切断することになった。それでも車椅子に乗って精力的に動いていたが、昨年から体調を崩して入退院を繰り返し、ついに波乱に満ちた生涯を閉じることになった。
重い病気と向き合いながら酒を飲み、ごちそうに舌鼓を打ち、たばこをくゆらせながら麻雀卓を囲んでいた。彼のエネルギッシュな姿を長く記憶にとどめておきたいと思う。
(森健兒・元日本サッカー協会Jリーグ専務理事)

 

本日の逸品

 

自家製ベーコン

 

 

昨夜は久しぶりに友人のお店へ 滋賀県 石山へ

 

オープンして半年が経ちましたが順調のようでした

 

 

自家製の餃子はうまかった! にんにくが入ってないので美味!

これで500円は安い!