【名優逝く】

8月10日(金)

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今日の記事

時代劇も何でもできる役者さんでした。 

40代後半の頃の伊丹映画の時が一番思い出があります。

晩年は「何でも言って委員会」のコメンテーターをして日本のいくえを憂いでいた。

映画史に名を刻む…思想でなく役柄で生きた俳優・津川雅彦

  • 2018年8月10日
津川雅彦さん(C)共同通信社
津川雅彦さん(C)共同通信

 津川雅彦さんの訃報に触れて最初に思い浮かべたのは若かりし頃、そしてトシをとってからの顔や表情の数々だった。若いときの飛び抜けた美男子ぶりが、人生の年輪を重ねるごとに相応の渋さを刻む風貌になっていく。それが数々の出演作品の中から筆者の脳裏に強烈に蘇ってきたのだ。津川さんはまぎれもなく映画の人だった。

10代から20代の頃では、中平康監督の「狂った果実」(56年)、大島渚監督の「太陽の墓場」(60年)と「日本の夜と霧」(同)、吉田喜重監督の「ろくでなし」(60年)あたりが群を抜いて印象深い。この作品群は、日本映画が変革ののろしを上げた時代の産物であり、太陽族映画(「狂った果実」)や、松竹ヌーベルバーグ(「太陽の墓場」)など)と命名された。津川さんが日本映画の偉大な2つのムーブメントを支えた重要人物であったことは、映画史的に忘れてはならない。

「狂った果実」は石原裕次郎の弟役で出演した作品だ。当時16歳、年上の女性(北原三枝)に憧れる甘ったれ坊主のような風貌としぐさが魅力的だった。美男子だが鼻っ柱の強さとナイーブさを兼ね備えたちょっと屈折気味の雰囲気が、映画の新時代の幕開けを象徴していた。のっぺり型ではない。いつでも攻撃に転じ切れるとがった部分を隠し持っていた。

日活から松竹に移った時期の代表作が、先の松竹ヌーベルバーグの一連の作品だ。太陽族映画の屈折した甘ったれ坊主が政治を語り、社会の底辺をさすらうニヒルな学生に転じていた。

「ろくでなし」では、金持ち学生(川津祐介)の配下となりながらも絶えず獲物を狙う動物のように牙を研いでいた。年上の女性(高千穂ひづる)とは、色悪のような風情でぶっきらぼうに付き合ったりする。筆者はそんな女との冷めた接し方に憧れたものだ。整った横顔に、太陽族映画とは一線を画す反ブルジョア、反体制の刃がギラッと光る。このスタイルが何ともいえず格好良かった。

 その後では、60年代から70年代の東映ヤクザ映画、80年代以降の伊丹十三監督作品などが、彼にとっての俳優の主戦場になるだろうか。熟達の演技力が加味され、安定した俳優の道を歩み始めた。風貌も若いときのようなとがった二枚目から、中年男の渋みをまぶしつつ凄みも増したものに転じていった。その過程で出合った作品が、伊藤俊也監督の「プライド 運命の瞬間(とき)」(98年)の東条英機の役であったと思う。

「プライド――」を見たとき、津川雅彦に本物の東条が乗り移ったかと感じて怖気を震った。表面上はともかく、津川さんは「思想は関係ない。右も左もない」という考えの持ち主だったと関係者から聞いているが、東条の役では、自身でセリフを書き加えるほど熱を入れたのは事実である。作品的な是非はともかく、本作の津川さんには若いときの太陽族映画や松竹ヌーベルバーグ時代とは違って、どこか高い地平へ飛び立ったかのような演技のはじけ方があったように思うのだ。このはじけ方に、ひょっとしたら演技者の未踏の領域、尽きぬ魅力の源泉があるのかもしれない。俳優は思想では生きない。役柄で生きると、いってしまいたい。

津川雅彦は映画の人といいながら、ほんの断片しか紹介できなかったのが残念だが、彼の最期をある関係者から聞いたときには正直ホッとした。「全く苦しまず、静かに息をひきとった」。津川さん、たくさんの映画、そしてテレビドラマ、本当にありがとう。監督作「次郎長三国志」(08年)が大好きでした。

(大高宏雄 映画ジャーナリスト)

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