【事始め】

12月13日(木)

皆様こんにちは

寒い日が続きます。

京都・花街では一年の始まりとされる

「事はじめ」の日にあたります。

今日の記事

明日は(14日)討ち入り

山科では義士祭りがあり朝から区内を練り歩きます。

内蔵助に安兵衛、九郎兵衛…忠臣蔵を巡る三者三様の生き方

公開日:
イラスト・亀谷来夢
イラスト・亀谷来夢

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 まもなく12月14日。元禄15(1702)年のこの日(旧暦)、江戸・松坂町の吉良上野介の屋敷に討ち入ったのが、赤穂藩浅野内匠頭の家臣47人です。「赤穂浪士」とか「四十七士」と呼ばれてきました。

前年の3月、内匠頭が江戸城内で上野介に刃傷に及んで切腹させられたうえ、「喧嘩両成敗」の原則があるにもかかわらず、上野介はお咎めなし。そのことを理不尽に思い、亡君の恨みを晴らしたという有名な話です。

彼らを統率した大石内蔵助は「昼行燈」と渾名されるほど目立たない存在でした。それが内匠頭の死を契機に“仇討ち”へと邁進したのは、彼の中に“かぶき者”の血が流れていたからです。かぶき者とは侍道の勇気を重んじ、売られた喧嘩を買わぬことのない人々のこと。勝つためには生命、地位、財産を捨てても悔いることのない精神です。

昼行燈の大石は、幕府が主君を一方的に処断したため「殿の喧嘩を引き継ぐ」と決意。喧嘩するからには勝たねば意味がない、という観点から綿密な準備を進めて仇討ちを成功させ、名家老として称賛されています。

 かぶき者の一人に剣の達人の堀部安兵衛がいます。赤穂城開城に際し、武士の一分が立たなければ殉死するしかない、との考えを示し、大石に一刻も早く吉良を討つよう意見した強硬派でした。

安兵衛はもともと越後新発田藩(現・新潟県新発田市)出身の牢人で、中山安兵衛と名乗っていました。元禄7(1694)年2月、江戸・高田馬場で行われた菅野六郎左衛門と村上庄左衛門3兄弟の果たし合いに参加。菅野と義理の伯父、甥の契を結んでいたからです。この果たし合いで安兵衛は、村上側8人のうち3人を斬りました。歌舞伎や講談では果たし合いを知った安兵衛が、酒をひっかけながら現場に駆けつけ、すでに死亡していた菅野の仇討ちとして三十数名を斬ったことになっていますが、そもそも安兵衛は最初から現場にいたのです。

ただ、この果たし合いは大評判になりました。

そのため安兵衛は、同年7月、赤穂藩士・堀部弥兵衛に乞われて婿養子となり、浅野家家臣に列したのです。その7年後に内匠頭が切腹となり、安兵衛は翌年、岳父・弥兵衛とともに吉良邸に討ち入りました。わずか7年の奉公ながら、主君の恩に報いたことが日本人の共感を呼びました。

こうした忠義者と反対に「裏切り者」のレッテルを貼られたのが、赤穂城明け渡し前に逐電した家老の大野九郎兵衛でした。理財の才に長けた人物で、明け渡しの際の退職金の分配について、大石が身分の低い者に多く分配すべきだ、と述べたのに対し、大野は禄高に応じて分配すべきだと主張。結果は折衷案に落ち着きました。

大野は自分に反感を抱く者がいるため身の危険を察知し、城内から夜逃げ同然で逃亡したのです。

ただし、彼については「第2軍説」も生まれました。もし上野介が米沢に避難したら、大野が奥州街道の山中で待ち伏せして襲撃する計画があったというのです。東北地方の数カ所に大野のものとされる墓があるため、この説を信じる人もいるようですが、彼は一代契約の家老、そこまでの義理はなかったと思いますね。

■日本人が忠臣蔵を愛するワケ

今月8日は日本海軍が真珠湾を攻撃した日だった。1941年のことだ。この攻撃と赤穂浪士の討ち入りには共通点がある。どちらも長らく日本人を魅了してきた。

なぜなのか?

真珠湾攻撃は、海軍が択捉島の単冠湾からひそかに出撃。ハワイ・オアフ島の米軍基地を叩いて戦艦、駆逐艦など8隻を沈没させる大勝利を収めた。まさに前代未聞の大奇襲作戦。しかも米側の戦死者が2345人に対して日本側は64人とされている。

日本軍はほぼ無傷で帰還したことになる。

一方、赤穂浪士の吉良邸討ち入りでは伝令役として切腹を免れた寺坂吉右衛門を含めて47人が参加。戦闘では一人も死者が出なかった。しかも吉良邸での催事の情報を入手し、人々がぐっすり眠っているところを叩くという、こちらも大奇襲作戦である。

源義経の一ノ谷の戦いを含めて、日本人は奇襲の成功話が大好き。

だから真珠湾攻撃を評価する人は事前にルーズベルト大統領が攻撃を知り、わざと日本軍に攻撃させたという説に否定的なのだ。

ほんじつの逸品

グレ(寒グレ)

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脂がのってきて美味です。