【昭和歌謡は遠くなりにけり】

 12月29日(火)
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今日の記事
相次いで亡くなられたな・・
昭和の歌には哀愁とロマンがあったな
希代ヒットメーカー相次ぎ死去…昭和歌謡は遠くなりにけり
公開日: 更新日:
中村泰士さん(C)日刊ゲンダイ
中村泰士さん(C)日刊ゲンダイ

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「北酒場」を作曲した中村泰士さん(享年81)が20日に亡くなった3日後、同曲を作詞したなかにし礼さんがこの世を去った。82歳。ことしは秋に作曲家の筒美京平さんが80歳で亡くなっている。希代のヒットメーカーたちが遺した昭和歌謡のメロディーを聴き、口ずさんで生きてきた中高年世代は冥福を祈るばかりだろう。

なかにしさんは歌について、「時代が咲かせる花」だと定義していた。約4000曲もの楽曲を作詞した、圧倒的な創作の源泉については、こう繰り返していた。

「昭和という時代への慈しみ、悲しさ、憎しみや恨みがあった。戦後の苦労なんかも含め、そうしたものを書きつづっていたんです」

その原点にあったのが壮絶な戦争体験。旧満州(現中国東北部)に生まれ、6歳のときに日本の敗戦で母と妹との3人で脱出しての逃避行のなか、父を亡くした。命からがらたどり着いた父母の故郷小樽では引き揚げ者として周囲からいじめに遭った。さらに特攻隊帰りの兄のニシン漁へのバクチのような出資で一家は破産、幼くして人生の辛酸をなめた。このときの情景を歌にしたのが名曲「石狩挽歌」であり、自らの過去、実体験に向き合い続ける。

歌謡曲のドーナツ盤約5000枚を収蔵する構成作家の加藤剛司氏はこう言う。

「昭和の時代を生き、名曲や名作を世に送り出した方々はそのほとんどが、お話を聞くと戦争に行きつき、そこでの情景や経験を決して忘れてはいないとの印象があります。死んでいった人々への思い、生き残った責任、悔恨のようなものを胸に抱え、その意味を問い続ける。作家の五木寛之さんも戦後、朝鮮半島から引き揚げてきた経験を原点とされ、それで己にむち打つといいますか、定期的に肉を噛まずにのみ込んでいるというお話をお聞きしたことがあります。胃を鍛えるためとおっしゃっていましたが、そういう気構えでどうしようもないものに対峙しようとしているように思ったのを覚えてます」

「エロスも不道徳も許されるのが平和であることの象徴」

 決して奇麗ごとばかりじゃない男女の歌。その情念も昭和歌謡に刻み込まれている。携帯もなければメールもない時代だ。逢瀬は深く、濃くなる。約束の場所に遅れれば、会うこともできないが、訳ありのふたりが人ごみにまみれて行方をくらます闇があった。

代表曲のひとつ「時には娼婦のように」が1978年の発売当初、内容がひどく過激だとして放送禁止にするテレビ局が出ると、なかにしさんはこう突っぱねた。

「エロスも不道徳も許されるのが平和であることの象徴じゃないか。平和だけは誰にも譲れない」

忖度や自主規制、コンプラ重視などといって、当たらず触らずの現代とは腹の据わりからして違う。

「作詞・作曲がそういう背景でなされれば、歌い手も作曲家らの門下生になり、カバン持ちからはじめるような修業と下積みを経て、マイクを握った。地方営業で下手をやれば、すぐに罵声とともに物が飛んでくる時代、当時のプロ歌手はそうした興行の世界に身を置いて必然的に鍛えられていたのです」(加藤剛司氏)

昭和歌謡の深み、力強さ、普遍性には理由があったのだ。翻って、今は……と中高年世代は頭を抱えるかも知れない。だが、ある放送作家はこう言っている。

「イギリスでこんな調査があったそうです。私たち人間が新しく聴く音楽を買わなくなる年齢は何歳か、と。結果は24歳。つまり多くの人は10代や20代前半までに聴いた音楽を一生、聴き続けているのです」

多感な10代、仕事に恋にと走り回った20代、街に昭和歌謡が流れていた世代はある意味、今よりも幸せだったと思いたいし、そう信じたい。

本日の逸品

馬の生レバー、心臓(ハツ)の刺身!

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希少なレバー!無くなり次第終了です。