【理想の結末】

4月10日(土)

皆さんこんにちは

今日の記事

橋田壽賀子先生と言えば

やはり「おしん」だ。今見ても泣ける

生前語っていたことが印象的だった

おしんは「昭和天皇」と同じ年に生まれる設定で書いた

なぜか?

「おしん」の幼少期

大正期、東北の大飢饉で多くの小作農家の幼い少女が身売りされるいる現状を知ってほしかったと答えている

自分で決めた大往生 橋田壽賀子さんが最後に書いた「理想の結末」 

「私が死んでも悲しまなくてもいいのよ。千の風になってあなたの周りにいるから」--。生前、その豪邸の家主は、近しい人にそう語っていた。海抜400m地点にある自宅の前には紺碧の海が広がり、晴れた日には房総半島や伊豆大島まで一望できる。車や人の往来はほとんどなく、静けさのなかで聞こえてくるのは鳥の囀りばかりだ。そこは静岡県熱海市にある鉄筋3階建ての一戸建て。4月4日午前9時13分、その家でひっそりと息を引き取ったのは脚本家の橋田壽賀子さん(享年95)だ。

「亡くなる前日に熱海市内の病院から自宅に戻りました。死の床では長年、ドラマでタッグを組んだ泉ピン子さん(73才)がつきっきりで、目を閉じて横たわる橋田さんに『ママ! ママ!』と声をかけていました。その声を聞くと、橋田さんは別れの挨拶をするかのように目を開きましたが、徐々に反応がなくなっていったそうです」(TBS関係者)

最期は“愛娘”に化粧を施されて、旅立った。その部屋には『千の風になって』が流れていた--。

1925(大正14)年、京城(現在の韓国・ソウル)に生まれた橋田さんは戦後に松竹の脚本部を経て、1959年にフリーの脚本家になった。1983年のNHK連続テレビ小説『おしん』は最高視聴率62.9%を記録し、1990年に始まった『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)は国民的人気ドラマになった。橋田さんの描く、逆境に耐えて生き抜く芯の強いヒロインは、世の女性に大きな勇気をもたらした。

昨年3月に志村けんさん(享年70)が亡くなってからはコロナ対策に慎重になり、外出を控えるようになった。

「今年に入り倦怠感や体重の減少がみられるようになり、2月に急性リンパ腫の治療で都内の病院に入院し、3月中旬に熱海市内の病院に転院しました。コロナ禍が始まると、同じく熱海に住むピン子さんにほとんど会えませんでしたが、入院してからはピン子さんが面倒をみていたそうです」(前出・TBS関係者)

そして前述の通り、亡くなる前日に橋田さんは愛する自宅に戻ってきた。

「熱海の自宅で最期を迎えることは、橋田さんのたっての希望でした。橋田さんは、自宅での死をずっと望んでいたんです」(芸能関係者)

◆静岡の墓所で夫の時計と眠る

晩年の橋田さんがこだわったのが「安楽死」だ。2017年に『安楽死で死なせて下さい』(文春新書)を書き、超高齢化社会に一石を投じた。当時の女性セブンのインタビュー(2017年11月30日・12月7日号)では、安楽死を望む理由をこう語っている。

《90才を過ぎ、足は痛いわ背中は痛いわ、もう体の衰えがひどいからです。夫が28年前に亡くなり、子供もおらず、親戚づきあいもしてこなかったので天涯孤独の身。例えば認知症になったり、半身不随で寝たきりになったりすると、下の世話まで人手を借りなければならない。人に迷惑をかけます。私はその前に死にたい。かつ、痛みの中では死にたくない。それで「安楽死したい」と言っているんです》

その思想の中心にあるのは「何も残さず、誰にも迷惑をかけず、安らかに逝きたい」という信念にほかならない。それは、いわゆる“自殺願望者”が持つ死への憧れとはまったく違う。むしろその真逆で、橋田さんの「自分で死に方を決める」という意識は、「死ぬ間際までキッチリと生を謳歌する」という強い決心になっていたのだ。

橋田さんは月に1度の血液検査を欠かさず、人間ドックも頻繁に受けた。健康マニアといっていいほど、健康管理や体力維持に熱心だった。

「90才を超えてからも週2~3回は熱海のジムに通って1時間ほど筋トレを行い、自宅でもバランスボールを使って体幹を鍛えていました。食事にも気を使い、運動前は梅干しや黒豆など軽めの食事ですませ、運動後の昼食はしっかり食べていました。そのほかの時間はテレビを見ることが多く、水谷豊さん(68才)主演の『相棒』シリーズ(テレビ朝日系)がお気に入りでした。夜12時には必ずお休みになっていました」(前出・芸能関係者)

橋田さんの原体験も、そうした生への執着につながっているはずだ。筋金入りの軍国少女だった橋田さんは当時死ぬ覚悟ができていたが、戦争で奪われた多くの命を見て生命の尊さを知り、さまざまなことにありがとうと感謝するようになった。戦後になると「本当の幸せや豊かさとは何か」を追求し、その問題意識を、貧しいながらたくましく生きる「おしん」の姿に投影した。

一方で橋田さんは両親を早くに亡くし、1966年に41才で結婚したTBSプロデューサーの夫・岩崎嘉一さん(享年60)とも1989年に死別した。

「その際、夫の家庭の事情で同じお墓に入れないことがわかったそうです。寂しい気持ちになったときに慰められた曲が『千の風になって』でした。曲を聴いて、『夫はお墓の中にはいない、千の風になって、広い空を飛んでいるんだ』と思うようになったそうです」(前出・芸能関係者)

その後、度重なる病気を患うなかで、「健康なままで死にたい」という思いが強くなっていく。

「橋田さんは80才手前で狭窄症を患って2度の手術を受けてから、『また悪くなったとき、治療や延命で人に迷惑をかけてまで生き続けたくない』と思うようになりました。2019年2月には、豪華クルーズ船でベトナム航行中に下血して意識を失い、最寄りの病院でたくさんの管につながれて身動きが取れないまま集中治療を受けました。その際、『こんなつらい状態で生きるなら、死んだ方がましだ』との思いを一層強くしたそうです」(テレビ局関係者)

89才で「立つ鳥跡を濁さず」と胸に誓って終活に取り組むようになり、作品関係の資料や私物の整理を始めた。

「終活ノートをつけて、死に臨む際の注意点を書き残しました。真っ先に記したのは、『延命治療はしないでほしい』と、『葬式や偲ぶ会は行わず、死んだことは誰にも知らせないでほしい』ということで、遺産はすべて自身の財団に寄付する方針です。

いくつになっても死を恐れる人が多いですが、橋田さんは一切ひるむことなく、『世間に知られずに死ぬのが理想。私を偲んでくれるかたがいるとしても、心の中で思い出してくれるだけで充分よ』と語っていました」(前出・テレビ局関係者)

残された者に負担をかけることを避けるため、生前にお墓の準備をすませた。遺骨は愛媛県にある橋田さんの両親のお墓に納められる予定だ。

そしてもう1つだけ--。

「ご主人と橋田さんが生前に愛用していた時計は、静岡県にある墓所に一緒に入る手はずです。『なぜ時計なのですか』と問うと、橋田さんは、『主人と私はふたりで時を刻んできましたから』と優しく答えてくれました」(前出・TBS関係者)

入院直前まで元気に過ごし、入院から約1か月で旅立った。本当に誰にも迷惑をかけない、“自分で決めた死に方”で大往生を遂げた。これが脚本家の彼女が最後に書いた「理想の結末」だった。

※女性セブン2021年4月22日号

 

本日の逸品

鯖寿司

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この時期脂はありませんので

お突き出しの逸品で添えます。