【真珠湾攻撃から80年】

12月9日(木)

皆さんこんにちは

今日の記事

歴史とは「因果応報」なのか

 

80年前の昨日12月8は真珠湾攻撃した日である

言い換えればアメリカと開戦して80年にあたる

当時はアメリカは欧州の戦線には傍観者の立場でいた

日本は騙し打ちをするつもりはなかった大使館の不手際でアメリカへの通告が2時間遅れた

これを知り当時の連合艦隊司令長官 山本五十六は 嘆いたと言う

奇襲作戦でアメリカの出鼻をくじき、ある程度の所で「講和」に持ち込むと言うシナリオだったが

だが、これにより、士気が落ちるどこらかアメリカの国威掲揚の士気が一気に上がった

「戦争をやる」理由ができたのである

では無いが、日本に原爆を落とされる羽目になってしまった

緒戦の「真珠湾攻撃」から日本は危ない橋を渡っていた

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1941年12月7日の日本軍機による真珠湾攻撃で炎上する米軍施設(C)ロイター=共同

1941年12月7日の日本軍機による真珠湾攻撃で炎上する米軍施設(C)ロイター=共同

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 12月8日は真珠湾奇襲攻撃から80年である。この80年間に日本とアメリカでは、この奇襲攻撃についてどのような変化があったであろうか。大まかに言えば、同時代的見方から歴史的見方へと変化していると考えていいだろう。同時代的見方として、通告もなしに攻撃を仕掛けてきた日本は汚いというのが、アメリカ社会の受け止め方であった。

「リメンバー・パールハーバー」という語は、無警告、無通告の奇襲攻撃に気をつけろといった意味になり、同時に今は奇襲攻撃を警戒せよ、に転じている。この語はもう一方で「ダーティー・ジャップ」との意味も含んでいると、アメリカの新聞記者から聞かされて私は複雑な気持ちになった。アメリカ南部のテネシー州に1カ月ほど滞在した時に、現地のアメリカ人に私が日本人だと明かし、「親父から日本人には背中を見せるなと言われたよ」と告げられたことがあった。1980年代である。真珠湾攻撃の衝撃は歴史の中に流れているように思ったものだった。

反して日本はどうか。無警告で攻撃を仕掛けるつもりはなかったが、駐米大使館の不手際で通告が遅れた、と弁解はしても、結果的に遅れたのは事実であり、それを言い訳にしても状況は変わらない。やはり日本は国際社会に当時の日本外交の失敗をありのままに伝えて真意を理解してもらう以外にない。その努力をすることがさしあたりの歴史的意味になると考えるべきである。私が懸念するのは、言い訳を繰り返したり、弁解のみを口にするだけではかえって信用を失うことになるのでは、という点である。

終戦から50年目を迎えた平成7(1995)年に、私は駐米大使館がなぜ開戦時の通告を2時間も遅らせたのかを調べて、月刊「文芸春秋」に発表したことがある。その際、駐米大使・野村吉三郎の秘書官を務めていた煙石学にその内実を確かめた。

「私は国務長官のハルに何度か連絡して大使のアポイントを取った。それが書類作りに手間取り、結局2時間近く遅れてのアポイントになった」

この失態が無警告、無通告につながったということになる。

この日の真珠湾奇襲攻撃は軍事的には予想外の成功となった。しかし政治的、歴史的、そして人道的には成功とは言えなかった。奇襲攻撃は軍事的に成功したとはいえ、「倍返しの報復」に通じていた。

緒戦から、日本は危ない橋を渡ったことになる

保阪正康

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保阪正康作家

1939年、北海道生まれ。同志社大卒。編集者を経て「死なう団事件」でデビュー。「昭和天皇」など著書多数。2004年、一連の昭和史研究で菊池寛賞。本連載「日本史 縦横無尽」が新書版「陰謀の日本近現代史」(朝日新聞出版)として好評発売中。

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